努力することが好きでしかたがない

f:id:onotaku75:20170730044325j:plain

こんにちは、おのたく(@Derra_86)です。

 

みなさんは、「努力」についてどんな持論をお持ちですか?

 

「努力することはダサい」とか「努力は不要である」だとか、人それぞれに持論があるかと思います。もちろん、僕にだって持論があります。

 

なぜ、唐突にこんな話題を持ち出したのか。それは、僕と同じく#Macbookおじさんに支援していただいたFくん(@fwww0707)の記事に触発されたからです。

 

この記事を読んで、僕と彼との努力観は対極的であることが分かりました。

 

あえて名前を付けるのであれば、彼は「天才型」で僕は「努力型」といったところでしょうか。つまるところ、僕は凡人なわけです。

 

今日は、凡人なりの努力観についてつらつらと書いていこうと思います。

 

何かを極めるためには努力は必要

 先ほどの記事の中で、彼はこう述べています。

楽しくやっているのなら努力じゃありませんよね。

ゲームが趣味な方が全クリしたことを「努力したね」とは言わないのと一緒です

 

 彼が言わんとすることは十分理解しているつもりです。無我夢中で打ち込めることはなにかを成し遂げようとしたとき強いです。

 

けれども僕は、誰しも何かを極めようとしたときには努力することは欠かせないと考えています。

 

例えば、僕の趣味のひとつはゲームなのですが、好きなことで結果を出すために努力しています。日々の練習はもちろんこと、大会で少しでも賞金を得られるためのトレーニングを欠かせません。

 

これも、端から見れば紛れもなく「努力」です。いくら僕が「好きだからやっているだけです」と言っても、第三者から見れば努力に変わりないでしょう。

 

では、楽しくないのか?

 

そんなはずもなく、僕は努力すること楽しくしかたありません。もちろん、その努力の末に結果が伴えばなおさらです。

 

仕事にしろ娯楽にしろ、極めることや結果を出すことに焦点を合わせれば、努力は欠かすことが出来ないというのが僕の努力観です。

 

それを踏まえたふえで、僕は努力することが好きであると明言します。

 

自分の行いを「努力」と呼ぶか否か

ここまで自分の考えを整理しつつ努力観を述べてきましたが、結局のところ努力なんてものは極めて客観的なものなんだと思います。

 

第三者の視点から見たときに、その姿が努力しているように映れば、そこに「努力している」という事実が生まれます。

 

そもそも論ですが、努力という概念そのものが定義できない、またはするべきでない事なのかもしれませんね。

 

とこのようにオチらしいオチもない記事になってしまいました。あぁ、上手な記事を書く努力が僕にはまだまだ足りませんね……

 

さて、あなたは「努力」についてどうお考えですか?

スポンサーリンク